中城村護佐丸歴史資料図書館

平成28年5月30日(ごさまるの日)オープン!!
中城村の英雄「護佐丸」や世界遺産・中城城跡をはじめ、琉球史が学べる歴史資料図書館です。本ブログでは、当館の企画展やイベント情報、活動様子などを紹介します。
★休館日:毎週火曜日、毎月第3木曜日、祝日の翌平日(祝日振替休)
★開館時間:平日・祝日10:00~19:00 土・日10:00~17:00

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てぃーだイチオシ

館長ブログ「館話本題」

館話本題とは・・・護佐丸歴史資料図書館の館長が日々徒然をつぶやくブログコーナーです。当館の館長に就任して1年。当館の出来事や中城村の話題、読んだ本についてなどなど、いろいろ語っていただきました。今回の更新をもって、「館話本題」は終了となります。ためになる楽しい雑学の数々でした。本当にありがとうございました。


題 五十
本の奥付 ~「館話本題」の最終ページ~


当館に関わることになって1年が過ぎようとしている。
机の目の前のパソコンについて操作の仕方などを説明してもらった際に、当館のブログがあることを知った。
どのホームページもそうだが、いつ見ても同じ内容のものだと見る側は飽きてしまって、アクセスしなくなる。

そんな単純な思いから、「せめて週に1度くらいは更新したほうがいいのではないか」などとポロッと口走ったのが災いして「館話本題」を始めることにした。
毎週土曜日に更新を続け、あれから1年である。
当初は意気込んだが、次第に息切れして、回を重ねるごとに無味乾燥になってきたのではないかと思っている。
今回、目標にしていた50回目になった。やはり、そろそろ潮時であり、一休みすることにした。

最後に何を書こうかと思いあぐねているとき、思いついたのが本の最終ページ。
たいていの場合、書名・著作者名・発行所名・発行年月日などが記されている。
これを奥付と称している。何らかの決まりがあって、それを記しているわけではないが、ほとんどの本にある。

かつては「出版法」(明治26年公布)という法律があって、検閲の必要から記載すべき事項が決められていた。
たとえば同法7条には「文書図画ノ発行者ハ其ノ氏名、住所及発行ノ年月日ヲ其ノ文書図画ノ末尾ニ記載スヘシ」とされ、8条では印刷者についても同じように氏名、住所等を記載するように義務付けられていた。

この「出版法」は戦後廃止されたが、その名残として引き続きかつての奥付の形式が残っているといわれるが、読者に対する出版物の発行責任をはっきりするという意味合いもあることはいうまでもない。と同時に本自体の履歴書・経歴書の役割も果たしている。
初版(第1版)とか第2版、3版あるいは初版第3刷などの表記を見れば、最初に発行したのがいつで、その後、いつ手を加えたのか、あるいは何回印刷発行されたのかが分かるようになっている場合が多い。

仮に同じ本でも「初版第1刷」というものと「初版第2刷」というものは基本的には修正箇所もなくいわゆる同じ本だが、「第2版」などと「版」の前に数字が付いていれば、「初版」とは違う(誤字脱字などの修正や加除がおこなわれている)というのが一般的である。
版にしても刷にしても、それぞれ数が多くなれば印刷・発行をそれだけ重ねているということであり、よく読まれている(利用されている)ということにもなる。

本は本文を読むのも楽しいが、奥付にもまたいろいろな情報が含まれていて、これを見るのも密かな楽しみである。

ブログ文責:村吉館長

館長ブログ「館話本題」

館話本題とは・・・護佐丸歴史資料図書館の館長が日々徒然をつぶやくブログコーナーです。当館の館長に就任して1年。当館の出来事や中城村の話題、読んだ本についてなどなど、いろいろ語っていただきました。今回含め、あと2回の更新をもって、「館話本題」は終了となります。1年間楽しい話題提供、本当にありがとうございました。


題 四九 


一隅を照らす


暦の12月が1年の節目であるように、3月は卒業・退職・転職・異動など社会生活・職業生活上の節目であり、やや大げさにいえば人生の転機にもなる。自分自身を振り返ると、幼・小・中・高・大と5つの卒業式を体験してきたし、卒業後は数度の退職・転職・異動を経験している。
しかし、大抵の場合、しっかりした目的・目標をもってその道に進んだという意識はないので、どれが人生の節目・転機だったのかよくわからない。
大学4年次になっても意欲的な就職活動もせず、当てもなく沖縄に戻ってきた。
われながら「ナンクルナイサニ」という生き方がぴったりではないかと思う。実にイイカゲンな人生である。

数十年前までは、日本的経営・雇用制度の代名詞として「終身雇用」「年功序列」が当たり前の常識で、企業・経営者も働く人もそれを当然のこととして受け入れていたが、いつしか「規制緩和」とか「多様な働き方」などの標語がもてはやされ、諸外国の経営学者からも日本的経営として評価されていた「終身雇用」「年功序列」などが否定され、いまや死語になりつつある。

現在の雇用慣行・雇用状況を見ると、派遣・臨時・嘱託などいわゆる「非正規雇用」が大きな比重を占めるようになっている。時代の流れといってしまえばそれまでだが、はたしてこのままでいいのかと不安になる。このような雇用慣行に見合った社会の仕組みに変えていくしかないのだろうか。

契約期間が終了して他の道に進まざるを得ない人、あるいは自らの進む方向を定めて職を変える人……、さまざまである。
これを「多様性」といえば受け入れやすいが、かつての雇用慣行の下で働いてきた世代には何となく気がかりである。
何が、あるいは何処が人生の転機になるのか、人には分からないし、本人ですら予測できない面もある。
与えられたその場、その時をその人なりに精いっぱいこなすこと、それしかないように思う。

一隅を照らす」という有名な言葉がある。
最澄の記した「山家学生式」が出典という。
詳細は知らないが、一隅とは文字通りの社会・世の中の片隅。たとえ人の目に着かない片隅にいても、そこを照らすことができる人―そんな人こそ社会の宝物ではないか。そのような意味だと解している。

人にはそれぞれ節目がある。
そんな中でも3月という時季には大小さまざまな節が刻まれているはずで、その次の新たな節までそれぞれの場所で、できることや与えられたことを無心にこなして欲しいと思う。

ブログ文責:村吉館長


館長ブログ「館話本題」

館話本題とは・・・護佐丸歴史資料図書館の館長が日々徒然をつぶやくブログコーナーです。図書館での日々、中城村のこと、読んだ本のことなど、館長が自由に語っています。今年度の更新も本記事を含めて残すところあと3回です!



題 四八

小学校教育課程特例校「ごさまる科」


「学校でもっと琉球史を教えてくれたら良かったのに」という声をよく耳にする。
琉球史についてあまり知らないことに対する自戒の念であったり、また、子どもたちに教えて欲しいという願望のようなものであったりする。
 
地域に対するこのような思いは、沖縄だけに限ったことではなく他の都道府県の場合も同じような状況であろう。
ただ、他の都道府県の場合は、それぞれの地域の歴史自体が日本史そのものの舞台の一コマであり、歴史の流れの構成要素でもあるだけに、日本史の大枠を理解すれば各地域の流れもある程度はすり合わせができる。
ところが沖縄の場合は、薩摩藩の琉球侵攻とか明治政府による琉球処分、沖縄戦などがトピックとして取り上げられることはあっても、日本史の舞台とはほとんど縁のない地域であり、そもそも日本史に包摂されるのかどうかという議論がおこるほどの独自の歴史を持つ。
したがって、日本史の教科書を勉強しても沖縄が見えるわけではない。
冒頭のような声が聞かれるのは、琉球史の特異な歩みを考えれば無理からぬことである。


話は変わるが、わたしが中学生の頃(1960年代中ごろ)、『琉球の歴史』という上・下2巻セットの副読本・歴史の教科書があった。
初版は1952年7月、著者は「おもろさうし」や沖縄の古謡など沖縄研究で有名な仲原善忠。
発行者は琉球政府文教局。何版か重ねられているが、発行者は琉球郷土史研究会、琉球文教図書へと変わっている。
通史としては体系的な時代区分のもとにまとめられるなど画期的な歴史教科書だった。
ただし、実際にその教科書を使った授業がおこなわれていたのかどうか記憶にない。
あるいは何時間か時間をとって教えていたのかも知れないが、残念ながら私自身、関心がなかったので覚えていないだけかも…。


現在、中城村の小・中学校では「ごさまる科」という正規の琉球史(地域史)の授業がおこなわれている。
県内で初めての取り組みである。

この「ごさまる科」は教育課程特例校制度の承認を受けて、平成26年度から村内の3小学校で実施されており、護佐丸や中城城跡を通して地域の歴史を学び、愛着と誇りを育むことをねらいにしている。
年間の授業時数は1・2年生10時間、3・4年生12時間、5・6年生15時間。
学年ごとに副読本が作成されている。
中学校でも『ありんくりん』が作成されている。
学校での授業のほか、中城城跡を訪ねてグスクの構造や特徴、当時の中城の状況等について学んだり、当館の歴史資料展示室で地域のおおまかな歴史を調べたりしている。

「ごさまる科」副読本(小学1年~6年用)




 
中城村の取り組みは沖縄だけでなく全国的にも特筆されるのではないか。
子どもたちが地域の歴史に触れることで、自分たちの地域に愛着や誇りを持てるようになって欲しいと願っている。

ブログ文責:村吉館長

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題 四七
琉球王国時代のユタ禁止令
琉球王国期の道徳書「御教条」
(高良倉吉『御教条の世界―古典で考える沖縄歴史―』)


ブッダの人生観の根本とされるものに四苦(生・老・病・死)というのがある。
人間にとって生きることや老いること、病になること、死に至ることなどは逃れることができず、生まれたときから苦悩を背負っているというもの。
現代の科学・医学の力をもってしても、これら4つの苦を解消するのは不可能であり、人間の力を超えた何ものかに頼りたくなるのも人の性。

ふだんはあり得ないような夢を見たとか、原因のはっきりしない病に罹ったなどいえば、かつては死霊・悪霊のなせる仕業に違いないと考えて、神などに、その処方の仕方を尋ねたりした。
神に直接祈る場合もあるが、神との交信を媒介する霊媒者(シャーマン)がいて、そういう人が間に入って、神の声を伝える場合もある。
沖縄では、そういう人をトキとかユタと称してきた。
このトキとかユタというのは古くからいて、人々の生活と深く関わってきた。
今日なお、何か迷いがあるとユタに相談に行くという人は、われわれの周りにも結構いるのではないか。

琉球王国時代の道徳書ともいうべきものに「御教条」という文書がある。
これは1732年に、かの蔡温をはじめとする当時の首里王府の首脳部によってまとめられ、王国内にひろく流布された。
役人や農民の心構え、各人の家庭生活や社会生活を営むうえでの徳目などが説かれ、地方においては間切番所や村屋などでの定期的な集まりの中で、人々に常に言い聞かせたといわれている。

この「御教条」の中に「時よた」(いわゆるトキとユタ)の活動を禁止するという項目があり、次のように記している。

「トキとかユタというのは自分の渡世のことを第一に考え、いろいろと虚言を申し立て、人をたぶらかすので堅く禁止する。この類の挙動をおこなう者は世間の妨げになるので、十分心得て置くこと」。

さらに、その次の条文では「死霊・生霊」について次のように説いている。
「病人がでると家人や周りの人々は、やれ死霊や生霊のなせる業だと恐れることがよくあるが、迷信に過ぎない」としている。

たとえば「生霊は法術で人を悩ますというが、もし、そういうことができるなら、戦争で敵を呪い倒せるはずだが、そんなことは不可能である」という。また「死霊も念力で人を悩ますというが、もし、それができるなら人の恨みを晴らせるはずだが、そんなことできるわけがない」などと、否定している。
「御教条」でユタを禁止する条項が設けられたのは、裏を返せば当時もユタやあるいはユタを信じる人がいて、為政者にとっては世の中を治めるうえでたいへん困っていたのであろう。

沖縄では俗に「医者半分ユタ半分」といって、病気の治療には医者だけでなく、ユタの力も必要という風潮が昔からあるらしい。
王国時代から表向きは迷信として否定されてきたが、途絶えることはなく、今日なお人々の精神生活と結びついている。
いくら医学が発展しても人間の心の裏側までは簡単に踏み込めず、処方もままならないということであろう。ユタに関することは「迷信」などと簡単にいう御仁も、実際にはいろいろな場面で結構「神頼み」しているはずである。

ブログ文責:村吉館長

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題 四六
レディネス―「寝ている人」と「寝たふりをしている人」


沖縄の諺に「ニントーセー ウクサリーシガ ニンタンフーナーヤ ウクサラン」というのがある。
意味は「寝ている人は起こせるが、寝たふりをしている人は起こせない」というもの。人は、その気がなければ、他人がいくら助言しても動かない。
自分にも思い当たることが結構あって、初めてこれを聞いたときはずいぶんウチアタイしたものである。

たとえば、音楽など聴こうという気がなければ時として単なる雑音・騒音にしかならない。
催し物の広報・案内もまさにそういうもので、広く情報を流しても、関心がなければ気にも止まらないし、仮に気に止まっても、そのときの関心の度合いによっては、すぐ忘れ去られる。
挙句の果ては、「もっと知らせてくれればよかったのに……」などと苦言をいわれる。

心理学や教育学関係の用語にレディネスというのがある。
簡単に「準備性」と訳されるが、たとえば学習するには、それを受け入れるだけの一定の知識や経験など心身の成熟・素地(準備)がなければ身に着かないというもの。また、たとえ知識や経験が備わっていても、興味・関心がなければ、いくら他人が教えても、やはり同じように身に着かない。そういうことは、われわれが日常的に経験していることである。

昨年、本村出身の海外子弟による研修発表を見る機会があった。
わずか3か月という短期間に空手や琉舞、三線などを習い、その成果を披露していた。古典舞踊の「かぎやで風」を覚え、それらしく踊る姿を見ていると、人は興味・関心や意欲があれば、短期間でも身に着くものだとあらためて感心する。
じつは数年前、地域の行事で例の「かぎやで風」を踊ることになり、自分自身も練習した。
そもそも自ら進んで踊ろうという意欲は薄く、人の後ろについて見よう見まねで手を動かしていればいいだろう、などと思っていたので、なかなか覚えられない。
素質にも問題はあるだろうが、そもそも覚えようという意欲がないのである。

ところで、冒頭の諺。
「寝ている人」と「寝たふりをしている人」の対比は、なかなか意味深である。
何事もそうだが、「やらない」と決めていることに対しては、あれこれ「やらない」あるいは「やれない」理由を考える。
「寝たふり」というのも同じことで、よほどのことがないと「起きない」のである。
それにしても人間は自分自身をうまく調整(合理化)するようにできているらしい。
都合の悪いことは「知らないふり」「聞こえないふり」をするのも現実。

ブログ文責:村吉館長

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題 四五
中学生人権作文コンテスト


中学生人権作文コンテストというのがある。これは法務省および全国人権擁護委員連合会が主催し、毎年実施しているもの。都道府県ごとの大会があり、そこで最優秀に選ばれた作品が全国大会に推薦される。ちなみに平成29年度(第37回)は全国で7,358校から960,390編の応募があった。
沖縄県大会には130校から6,520編が寄せられ、最優秀賞6編、優秀賞15編、奨励賞11編が表彰されている。最優秀賞6編のうち1編が全国大会に推薦された。
中城村内からは中城中学校3年生の宇地原望さんの「一歩踏み出す勇気を持って」が県大会優秀賞に選ばれている。中城中学校の生徒の作品が県大会で選抜表彰されるのは3年連続である。
また、今年度は中城中学校から在籍数の30%を超える多数の応募が寄せられたこともあり、那覇地方法務局沖縄支局・沖縄人権擁護委員協議会から感謝状(学校賞)を贈られている。

この中学生人権作文コンテストは、次代を担う中学生の皆さんが日常の生活や学校生活等の中で得た体験に基づく作文を書くことで、人権尊重の大切さや基本的人権についての理解を深め、豊かな人権感覚を身につけることを目的として、昭和56年度から実施されている。
 応募作品を内容別にみると、いじめをテーマにしたものが最も多く、次いで差別問題、障がいのある人に関する問題などが続く。戦争や平和をテーマにした作品も多い。

中学生の人権作文を読んでいると、純真さ・率直さが伝わってきて、こちらがかえって考えさせられる。例えば、車いすを利用しているあるチームメートが買い物に行ったさい、店員からあたかも小さな子どもに言い聞かせるような態度で声をかけられ、すごく傷ついたという話をもとに障害者差別や偏見の問題を取り上げたり、また、いじめる側といじめられる側を経験して、いじめられる側の辛さや、いじめる側のつながりの脆さを取り上げるなど、それぞれの体験をもとに素直に語ったりしている。
 
子どものいじめ問題などに接して思うのは、いじめる側は「いじめているつもりはなかった」とか「すこしふざけていただけ」など、「軽い気持ち」でいるが、いじめられる側は「自分に非がある」「だれにも相談できない」「死にたい」など深刻に自分を責めていることが多い。そのため、なかなか他人に相談できず表面化しにくい面がある。
私たちは、「いじめ問題」というと単純に学校とか子どもたちの世界を想定しがちだが、よくよく考えると、どの世界にもある。「人権感覚」とか「人権思想」が問題になるのは、その裏返しでもある。

ブログ文責:村吉館長

館長ブログ「館話本題」

館話本題とは・・・護佐丸歴史資料図書館の館長が日々徒然をつぶやくブログコーナーです。中城村の文化財に詳しく、人脈がひろい館長が、意外と知られていない中城村のこと、図書館での日々、読んだ本についてなどなど、自由気ままに語っています。今回は企画展「なつかしき友・先生・学び舎-写真にみる中城の学校のあゆみ-」に関連するお話です。


題 四四
教員の名産地


村内の年配の教育関係者は、わが村・中城村を称えて「教育村中城」という。
村出身者からすると、地域性として子どもの教育に熱心に取り組んできたという自負心もあって、誇らしげに語るのではないかと思う。
それとは別に、他市町村出身者からも「中城は学校の先生や校長が多かった」という声をよく耳にする。
現在でも村出身の教員の数が多いのかどうかは知らないが、かつては多くの教員を輩出していたようである。

明治37年3月の「琉球新報」の記事に「教員の名産地」として、次のような記事が掲載されている。

「中城間切は総数二十三ヶ村にて各村出身の教員は目下現に六十名の多きに達し(中略)向後四ヶ年間には九十四名以上の教員を出し実に県下否全国に比類稀なる教員の名産地と云ふべし(後略)」

それから5年後の明治42年9月に、本村教育関係者による「中城師友会」の結成を伝える記事が掲載されていて、その中にも「教育の名産地」という表現が使われている。

 「今や村出身の教員の数五十有余名に達し、県下到処に向上発展しつつ有り教員の名産地と言ふも過言に非ざる可し」

 では、当時の教員数はどのくらいだったのだろうか。
それに関連する資料として、明治41年12月に「中頭郡教員俸給額」と題した記事があり、その中に「中頭郡内に於ける教員の総数は三百九人にして、其の中正教員百六十八人、準教員七十五人、代用教員六十八人」とある。
その頃の中頭郡は11村からなっており、中頭郡の教員総数309人を単純に1村あたりにするとおよそ28名である。
先述の記事による本村の教員の数は「五十有余名」と記されており、平均のおよそ2倍に達している。
確かに多いということが頷ける。

当時の新聞記者は、このような状況を踏まえて「教員の名産地」と評したのであろう。
明治37年と42年に同じような表現が使われているということは、新聞記者だけでなく県下に広く知られ、認知されていたことが推測される。
こうした自他ともに認める学校教育への情熱が、明治・大正・昭和へと引き継がれ、多くの人材を輩出したのではないかと思われる。

当館では本村の学校関係の歴史を振り返る企画展「なつかしき友・先生・学び舎-写真にみる中城の学校のあゆみ-」を開催している。
戦後の写真が多いのはやむを得ないが、懐かしく思い出しながら、あらためて「教育村中城」の再興を考えるのもいいのではないかと思う。

ブログ文責:村吉館長






キラキラ コチラもチェックキラキラ 

当館の近日のイベント
右2月24日(土) 防災フェアin護佐丸歴史資料図書館
右2月25日(日) ペイント教室
右2月の企画棚★平昌オリンピック特集★




館長ブログ「館話本題」

題とは・・・護佐丸歴史資料図書館の館長が日々徒然をつぶやくブログコーナーです。図書館での日々、読んだ本のこと、中城村のことなどを語っています。そろそろ執筆を終わろうか・・・と度々呟いていますが、聞こえないフリをして毎週土曜日更新しています!


題 四三
まぼろしの「琉球国旗」


前回、『沖縄から琉球へ』について書いた際、その本の表紙カバーに「琉球国旗」の図案が使われていることに触れたら、「琉球国旗」とは何かという声が出た。

これは1950年に当時の沖縄民政府によって、琉球の「国旗」として制定されものである。
戦後初期の米軍統治下の沖縄で、「沖縄を象徴する旗をつくったらどうか」という米軍政府の高官の意向を受け、沖縄民政府(志喜屋孝信知事)が美術家協会にデザインを委嘱した。

横長の長方形の地を三等分し、上から青・白・赤の三色を配し、左上に白抜きの星をデザインしたものが出来上がり、沖縄民政府では関係部長会を開催し、これを「琉球の旗」とする旨を発表した。
しかし、住民がまったく関心を示さず、そのご使われることなく消えてしまったという。
まぼろしの「琉球国旗」(あるいは「沖縄旗」)といわれる所以である。(沖縄タイムス社『沖縄大百科事典』)



▲琉球国旗の図(上記文章より再現したもの)



前回紹介した『沖縄から琉球へ』によると、「青は平和、白は自由、赤は熱誠明星は希望」を象徴したものとされる。


数年前、中部のとあるステーキ専門の店で食事をして帰ろうとすると、そこの店長とおぼしき人から「これもらいますか」といって、小さな袋に入ったピンバッジを差し出された。
「ありがとう」といって受け取り、なんだろうと思って袋を開けてみると説明書があり、「琉球国旗」と書いてある。
どういう経緯でつくったのか聞いていなので解らない。
単なる遊び心なのか、それとも何らかの思いでもあるのか……。

突然差し出されたので、そのときは深く考えることもなかったが、家に帰って気になったので資料を探すと、確かに沖縄民政府時代に制定したことが解る。
誰かが私的にデザインしたというものではなく、当時の正式な政府機関で検討され、発表されているものなのである。

改めてよくよく考えてみると、かつて我が沖縄は独立国であり、独自の外交を展開していた。
沖縄・琉球には、そのような「国旗」を思考する潜在的なDNAが歴史の奥深くに宿っているかも知れない。
生物多様性が問題にされるが、それと同じように地域や文化の多様性があって当然だし、何も否定すべきことではない。沖縄の個性・特性を大事にしたいと思う。

ブログ文責:村吉館長







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企画展「なつかしき友・先生・学び舎-写真にみる中城の学校のあゆみ-」
2月の企画棚
2月25日(日)ペイント教室のお知らせ

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館話本題とは・・・護佐丸歴史資料図書館の館長が日々つれづれを呟くブログコーナーです。図書館での日々、読んだ本のこと、中城村のことを毎週土曜日語っています。


題 四三
『沖縄から琉球へ』
(仲宗根源和、月刊沖縄社1973.5.)



中城村ではすでに『中城村史」』を完結させ、その中に「戦争編」をまとめているが、その後、新たな資料が見つかったり、収録されなかった事実や記録等の発掘を求める声が寄せられたりして、より充実した沖縄戦の記録を残そうということになり、現在編集作業をおこなっている。
 
その作業は当館の業務ではないが、編集メンバー(生涯学習課文化係戦争班)が同じ事務所内にいるため、ときどき進捗状況や沖縄戦に関する資料について話を聞くことがある。
終戦直後の住民の生活や政治状況について以前から関心はあるが、意識的に調べたことはなかった。

この戦争班の話を聞いていて戦後初期の状況がなんとなく気になって、本棚で目に留まったのが仲宗根源和著の『沖縄から琉球へ』である。初版は1955年、私の本棚にあるのは73年の再版本である。
同書は「米軍政混乱期の政治事件史」というサブタイトルが付いているように、米軍の沖縄本島上陸の頃から1950年代にいたる、住民と米軍の動向が描かれている。とくに北部における避難民や収容所での生活の様子、米軍との折衝など、直接かかわっていた者しか記述できないような貴重な内容が盛り込まれている。
もともとは新聞社の要請を受け、52年4月から90回余にわたって連載したもので、「大戦争のあとの大混乱、大混沌の中から如何にして秩序が生れ、如何にして平和が生じて来たか」を記すことが著者自身の責務と感じて、書いたと語っている。

著者の仲宗根源和は本部町出身で、戦前の沖縄師範学校を卒業後、教師や出版業等に従事したほか、県会議員も務めている。戦後は米軍政府の諮問機関・沖縄諮詢会の社会事業部長として活躍した。
また、戦後初の政党・沖縄民主同盟を結成している。
本のタイトルになっている“沖縄から琉球へ”という文言は、日本と米国の間で翻弄された戦後沖縄の歴史を象徴的に表現するものであろうし、表紙カバーに「まぼろしの琉球国旗」の図柄を使用していることは、沖縄の主体性・自立性の精神を訴えているのであろう。これらによって、著者の思想的背景を読み取ることもできる。

戦後初期、日本から切り離された沖縄では、その帰属が議論された。
日本に復帰するのか、それとも自主・自立の道をめざすのかということである。当時は、日本と沖縄は「親子の関係」だとして「祖国」に帰ることを唱えるのが大きなうねりになっており、こうした中で、著者の仲宗根源和は「ヒステリックに復帰を唱える」ことに対してはかなり批判的だった。したがって、そのような大きなうねりのなかで仲宗根源和は「独立論者」とか「親米派」とか評され、ほとんど受け入れられなかった。ただし、仲宗根自身は「向米一辺倒にも向日一辺倒にも反対」と書いている。沖縄の自主・自立、アイデンティティが問題となる中で、気になる人物の一人である。

ブログ文責:村吉館長

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題 四一 
企画展「なつかしき友・先生・学び舎―写真にみる中城の学校のあゆみ―」





中城中学校が今年、創立70周年を迎える。
また、かつて中城城跡内にあった中城小学校が屋宜(現在の中城中学校敷地)に移転してから100年になる。

このような節目にあたり、学校に関する写真展をやったらどうかという声があり、「おもしろいかも…」とすぐ反応したのが当館の学芸員。
昨年10月ごろから周りに声をかけ、学校にも協力を依頼して資料収集に動き出した。

プレ企画展(予告編)として資料展示室にいくつかの写真を紹介したら、いろいろな人から「懐かしい」とか「この方は、○○先生だ!」などと反響が寄せられたほか、「こんな写真もあるけど…」といってわざわざ写真を提供してくださった人もいて、担当者は準備作業に一段と気合が入った。
名護市にある民俗資料博物館にも出向き、貴重な資料も提供していただいた。
 
終戦直後の窓もない粗末な茅葺校舎などの写真を見ていると、このような劣悪な環境下にありながらも、子どもたちの教育のために情熱を尽くした恩師の姿が思い出され、あらためて頭が下がる。

日本復帰後、政府の公立補助制度もあって多くの校舎が次々と取り壊され、新しく建て替えられた。
おそらく半世紀前の学校の校舎はほとんど姿を消したのではないかと思う。
耐久性や耐用年数の関係もあって、やむを得ない側面もあろうが、自分が通っていた当時の学校の面影がすっかりなくなり、写真でしか見ることができないという寂しさを感じる人も多いのではないか。
その点、中城中学校の校庭にあるクワディサーは100年の歴史、思い出を今に伝える貴重な「学校教育遺産・生き証人」といえる。

今回の企画展に関する資料収集の段階で、思いがけない発見があった。
かつて中城中学校(戦前の中城国民学校)の敷地にあった「奉安殿」の写真である。
この「奉安殿」は、戦後もしばらくは残っていたが、1960年代後半頃?に取り壊され、跡形もなくなって、話題だけが残った。
この度、沖縄県公文書館のアーカイブを閲覧していた学芸員のFさんが、たまたま全体の構造が確認できる写真を発見した。
1964年、ときの琉球政府行政主席が中城中学校を視察した際、その一行が撮影したものらしい。
現物の「奉安殿」を見ていた世代にはとっては懐かしい話題の一点ではないかと思う。

中城の学校・教育を写真で振り返るこの企画展は2月1日(木)から3月25日(木)まで、当館3階の企画展示室で開催される。多くの皆さんの来館をお待ちしています。

ブログ文責:村吉館長


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