館長ブログ「館話本題」
館話本題⁑7 読書の方法
館話本題 其の七
高校時代の恩師に崎山里秀という英語の先生がいた。
いまふり返ると、教育についてはたいへん情熱的で厳しかった。いまでいう学力向上に情熱を燃やし、指導していたように思う。
それだけに、生徒からは畏れられていた。
その先生のことに関して記憶に残っているのはいくつかある。
その中の一つに読書についての話がある。どのような場面で話したのかは思い出せないが、読書の仕方・方法についての話である。
読書には熟読とか精読というのがあり、また、乱読とか斜め読みというのもあるといったことを話し、それに続けて“ツンドク”というのがあるといって、黒板に「積読」という漢字を書いた。
その意味は、とくに読まなくても購入するなど自分で手に入れて積んで置くだけでもいいという趣旨のことだった。
その時は、「まさかそんなことをしても意味ないのではないか」などと思って聞いていた。
しかし、自分自身と本との関わりを振り返ると、まさに「積読」に近い。読むつもりで買ったはずだが、数ページ読んだだけで後は本棚に収まったものが多い。熟読したという本はあまりない。
でも、よく考えてみると、本によっては必ずしもすべての人が隅々まで読むことを前提にしているわけではない。
たとえば事典・辞書。ほとんどの人が利用しているが、1ページから最終ページまで熟読するとは思えない。
中には「○○の国語辞典を全部読んだ」というツワモノの話を聞くことはあるが、それは特異なケース。
普通は必要なときに必要な個所を読んで調べるものである。資料集などもそれに近い。
そのことをあまり強調すると、本を読まない自分に対する言い訳にもなるので、そこまでにする……。
ところで、最近知ったが、この「積読」という言葉は明治の頃からあるという。
たとえ熟読しなくても、たまには当館に立ち寄って、どんな本があるのか、あるいは興味がある本を手に取って「立ち読み」するのもいいのではないか。
かの恩師は、この「立ち読み」については触れなかったが、私にとっては楽しみの一つである。ただし、書店などで購入する気もなく、長時間立ち読みすることについては賛否いろいろありそうだから気をつけましょう。
読書の方法
高校時代の恩師に崎山里秀という英語の先生がいた。
いまふり返ると、教育についてはたいへん情熱的で厳しかった。いまでいう学力向上に情熱を燃やし、指導していたように思う。
それだけに、生徒からは畏れられていた。
その先生のことに関して記憶に残っているのはいくつかある。
その中の一つに読書についての話がある。どのような場面で話したのかは思い出せないが、読書の仕方・方法についての話である。
読書には熟読とか精読というのがあり、また、乱読とか斜め読みというのもあるといったことを話し、それに続けて“ツンドク”というのがあるといって、黒板に「積読」という漢字を書いた。
その意味は、とくに読まなくても購入するなど自分で手に入れて積んで置くだけでもいいという趣旨のことだった。
その時は、「まさかそんなことをしても意味ないのではないか」などと思って聞いていた。
しかし、自分自身と本との関わりを振り返ると、まさに「積読」に近い。読むつもりで買ったはずだが、数ページ読んだだけで後は本棚に収まったものが多い。熟読したという本はあまりない。
でも、よく考えてみると、本によっては必ずしもすべての人が隅々まで読むことを前提にしているわけではない。
たとえば事典・辞書。ほとんどの人が利用しているが、1ページから最終ページまで熟読するとは思えない。
中には「○○の国語辞典を全部読んだ」というツワモノの話を聞くことはあるが、それは特異なケース。
普通は必要なときに必要な個所を読んで調べるものである。資料集などもそれに近い。
そのことをあまり強調すると、本を読まない自分に対する言い訳にもなるので、そこまでにする……。
ところで、最近知ったが、この「積読」という言葉は明治の頃からあるという。
たとえ熟読しなくても、たまには当館に立ち寄って、どんな本があるのか、あるいは興味がある本を手に取って「立ち読み」するのもいいのではないか。
かの恩師は、この「立ち読み」については触れなかったが、私にとっては楽しみの一つである。ただし、書店などで購入する気もなく、長時間立ち読みすることについては賛否いろいろありそうだから気をつけましょう。
ブログ文責:館長村吉