続・館長ブログ「吉の浦だより」
「もうひとつのグスク ―中城村の新垣グスク」展はじめました(吉の浦だより13)
中城村のグスクと言えば、「中城グスク」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。護佐丸の居城として有名ですし、その城跡は世界遺産、国指定史跡にもなっていますので当然だと思います。しかし、「もうひとつのグスク」が中城村にあることをご存じでしょうか?それが「新垣グスク」です。当館3階では、5月1日から5月31日までの間、「もうひとつのグスク ―中城村の新垣グスク」展を開催中です!
新垣グスクは、新垣集落の北方アラカチヤマと呼ばれる標高170mほどの高所にあり、今は森に包まれてひっそりと佇んでいます。地元にはグスクとしての活動を示す伝承が無く、長らく御嶽として認識されてきました。ある意味「忘れられたグスク」であり、誰が築いたのか、どんな活動をしていたのか等、謎だらけの存在です。
しかし、平成16~17年度に村教育委員会が行った発掘調査で明らかになったこともあります。まず、グスクの範囲です。新垣グスクは、アラカチヤマの高所を取り囲んで東北から南西にかけて設定され、上から見ると細長い三角形をしています。尖った頂点が南西側で、その対辺が東北側です。頂点から南側と北側に伸びる二辺には石灰岩の崖が続いていて、敵の侵入は難しそう。弱点になりそうなのが殿曲輪のある東北側ですが、ここには「土塁」や「堀切」といった人工的な防御を設置していることが分かりました。
グスクはいくつかの曲輪で構成されていますが、「一の曲輪」・「二の曲輪」と、「殿曲輪」では出土資料に違いがあることも分かりました。前者では、地元産のグスク土器が大量に出ますが、後者では殆ど出土しません。逆に殿曲輪では中国明時代の青花が発見されましたが、一・二の曲輪では出土しませんでした。青磁や白磁は両方に共通しますが、様式が違い、殿曲輪では若干新しい時期のものが出ます。これらの出土状況等から、一・二の曲輪の活動時期は14世紀、殿曲輪のそれは15~16世紀半ばであると推定されています。殿曲輪はグスク東北側の弱点を補強するため、後から設置したのかも知れません。
「おもろさうし」の巻二(1613年編纂)には、新垣グスクとその城主を称えるオモロが収録されています。グスク時代にかなり繁栄したグスクであったことは間違いなさそうですが、それが何故廃されてしまったのか?城主やその家族はどうなったのか?この人たちと新垣集落の関係は?など、この機会に展示を見ながらいろいろと思いを馳せてみては如何でしょうか。
(文責:濱口寿夫)
新垣グスクは、新垣集落の北方アラカチヤマと呼ばれる標高170mほどの高所にあり、今は森に包まれてひっそりと佇んでいます。地元にはグスクとしての活動を示す伝承が無く、長らく御嶽として認識されてきました。ある意味「忘れられたグスク」であり、誰が築いたのか、どんな活動をしていたのか等、謎だらけの存在です。
しかし、平成16~17年度に村教育委員会が行った発掘調査で明らかになったこともあります。まず、グスクの範囲です。新垣グスクは、アラカチヤマの高所を取り囲んで東北から南西にかけて設定され、上から見ると細長い三角形をしています。尖った頂点が南西側で、その対辺が東北側です。頂点から南側と北側に伸びる二辺には石灰岩の崖が続いていて、敵の侵入は難しそう。弱点になりそうなのが殿曲輪のある東北側ですが、ここには「土塁」や「堀切」といった人工的な防御を設置していることが分かりました。
グスクはいくつかの曲輪で構成されていますが、「一の曲輪」・「二の曲輪」と、「殿曲輪」では出土資料に違いがあることも分かりました。前者では、地元産のグスク土器が大量に出ますが、後者では殆ど出土しません。逆に殿曲輪では中国明時代の青花が発見されましたが、一・二の曲輪では出土しませんでした。青磁や白磁は両方に共通しますが、様式が違い、殿曲輪では若干新しい時期のものが出ます。これらの出土状況等から、一・二の曲輪の活動時期は14世紀、殿曲輪のそれは15~16世紀半ばであると推定されています。殿曲輪はグスク東北側の弱点を補強するため、後から設置したのかも知れません。
「おもろさうし」の巻二(1613年編纂)には、新垣グスクとその城主を称えるオモロが収録されています。グスク時代にかなり繁栄したグスクであったことは間違いなさそうですが、それが何故廃されてしまったのか?城主やその家族はどうなったのか?この人たちと新垣集落の関係は?など、この機会に展示を見ながらいろいろと思いを馳せてみては如何でしょうか。
(文責:濱口寿夫)