中城村護佐丸歴史資料図書館

平成28年5月30日(ごさまるの日)オープン!!
中城村の英雄「護佐丸」や世界遺産・中城城跡をはじめ、琉球史が学べる歴史資料図書館です。本ブログでは、当館の企画展やイベント情報、活動様子などを紹介します。
★休館日:毎週火曜日、毎月第3木曜日、祝日の翌平日(祝日振替休)
★開館時間:平日・祝日10:00~19:00 土・日10:00~17:00

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続・館長ブログ「吉の浦だより」

「久場崎の戦後引揚げ展」始まりました!(吉の浦だより22)

当初、昨年8月に開催を予定していた「久場崎の戦後引揚げ開始75周年記念企画展」が1月29日から始まりました。同時に開催する予定だった京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 沖縄」は3月に延期となりましたので、しばらくは久場崎港のみの展示となります。2月13日には、引揚げを専門的に研究されている先生方による関連シンポジウムを開催しますので、参加ご希望の方は当館にお電話ください(申し込みは2月7日まで)。

「久場崎の戦後引揚げ展」始まりました!(吉の浦だより22)

「戦後引揚げ」とは、第二次世界大戦終了時に日本の国外にいた方々が故郷に帰還したことを意味する言葉です。数年の間に日本全体では600万人を超える方々が引揚げましたので、世界史上類を見ない規模・スピードの民族大移動でした。沖縄へは18万人を超える方々が南洋群島、台湾、満州、ソビエト等、そして日本本土から引揚げています。終戦当時、沖縄島の人口は30万人程度でしたので、引揚げによって一気に人口が膨張したわけです。このことは、元々不足していた住居、食料、耕作地がいよいよ払底する危機に直面することを意味します。帰還者の持ち込むお金が、通貨の流通量を激増させインフレを起こしたりもしました。その一方で、戦後の復興を支える数多の人材が沖縄に戻って来たという側面もあります。いずれにせよ、引揚げは戦後の沖縄に非常に大きなインパクトを与えた出来事だった訳です。

引揚げに関して日本本土と大きく異なる条件は、沖縄が米軍政府の施政権下にあったことです。琉球列島米軍政府は引揚者を受け入れた際に発生が予想される食料・住居等に係る社会的混乱を懸念し、当初引揚者の沖縄への渡航を認めませんでした。そのため、沖縄県人は故郷への帰還が大きく遅れます。米軍政府がようやく態勢を整え、公式な引揚計画に基づき沖縄県人の引揚げを本格的に開始したのは終戦から1年たった頃でした。

「久場崎の戦後引揚げ展」始まりました!(吉の浦だより22)
久場崎港に接近する引揚船、1946年(琉米歴史研究会所蔵)

台湾では、日本本土への民間人の引揚げは1946年2月頃から始まっています。沖縄県人も、そのつもりで引揚港の近くに集まってきますが、沖縄島への渡航が認められないばかりか、いつ可能になるという目途もない状況に置かれます。疎開者のうち、高齢者や子どもたち等は台湾総督府から支給されるお金で生活していたケースも多く、敗戦で総督府が機能停止してからは食べる物にも事欠く状況が続いていました。その他の人たちも港に来る時点で仕事はやめ、家も引き払っていますので1日でも早く沖縄に帰りたいのです。それがいつ出発できるか判らない状況で何カ月も過ごすのですから、さぞや困ったことだろうと思います。米軍の海岸警備が手薄だった宮古・八重山の人たちの中には、正式な引揚げを待ちきれず、漁船等をチャーターして自力で帰郷する例が多かったと言われます。ようやく1946年10月に台湾から沖縄島への引揚げが始まりますが、それまでの間に栄養不足や、不衛生な環境により亡くなってしまう方もいました。

海外から沖縄に引揚げる場合、上述のような直接帰還と、一旦日本本土に引揚げそこから沖縄に向かう2つのパターンがあります。満州やソビエトからの引揚げは後者です。大陸にいた方々は敗戦にともなう大混乱の中、飢え、病気、暴行、強制連行など命を危険にさらされながらの移動となりました。亡くなる方も多く、残留された方も大勢おられます。満州からの場合は主に葫蘆島、ソビエトからの場合はナホトカから京都舞鶴港へ引揚げます。日本に着いて一安心という面もあるとは思いますが、すぐ沖縄に帰れるわけではありません。身内との連絡がつかず、沖縄がどうなっているのか情報が無いという状況で不安を抱えつつ舞鶴港近くの「引揚援護寮」という名の収容所で暮らすことになります。沖縄に帰ることを諦め本土に定住することを選んだ人たちもいました。舞鶴からは原則として沖縄行きの船が出ません。従って、沖縄に向かう引揚者たちは、佐世保や鹿児島といった沖縄行きの船が出る港に移動しなければなりません。何とかたどり着いても、いつ出るか分からない船を待つため、またもや援護寮で数カ月暮らすことになったりしました。

「久場崎の戦後引揚げ展」始まりました!(吉の浦だより22)
久場崎に着いたとたんDDTを散布される帰還者たち、1946年(琉米歴史研究会所蔵)

沖縄の戦後引揚げについては、各市町村が刊行した戦争体験の証言集等の中でしばしば語られていますし、『琉球官兵顛末記』や『沖縄と「満洲」』等の書籍も刊行されています。しかし、沖縄の近代史における重要性の割にはあまり一般に知られていないように思います。これは自分自身が不勉強で、本企画展に関わるまで知らなかったのでそう感じるのかも知れません。しかし、「開拓農民として満州に入植し、戦後シベリア抑留されて、ずいぶん苦労されてから舞鶴港経由で沖縄に引揚げてきたウチナーンチュがいるんだ」と言ったときの私の周囲の人々の反応は「そうだってね…」ではなく、「え、そうなの!?」というものが殆どでした。

「久場崎の戦後引揚げ展」始まりました!(吉の浦だより22)

米軍政府の戦後引揚げ計画による最初の引揚げ者たちが沖縄に帰還したのは1946年8月17日で、上陸地点は中城村久場崎港です。久場崎港は沖縄への引揚げ者の大部分を受け入れた港で、この方々の戦後沖縄の暮らしはここからスタートしました。本企画展は公式引揚げ開始から75年の節目の年にちなんで開催されるものです。新型コロナ感染症の影響で、開催が今になってしまい、厳密には76周年かも知れませんがご容赦ください。この機会に、一人でも多くの方が戦後引揚げを知って、関心を持ち、これに関わった人々に思いを馳せて頂けたら幸いです。

(文責:濱口寿夫)


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