中城村護佐丸歴史資料図書館

平成28年5月30日(ごさまるの日)オープン!!
中城村の英雄「護佐丸」や世界遺産・中城城跡をはじめ、琉球史が学べる歴史資料図書館です。本ブログでは、当館の企画展やイベント情報、活動様子などを紹介します。
★休館日:毎週火曜日、毎月第3木曜日、祝日の翌平日(祝日振替休)
★開館時間:平日・祝日10:00~19:00 土・日10:00~17:00

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てぃーだイチオシ

続・館長ブログ「吉の浦だより」

現在、当館では「舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 沖縄」を開催しています。舞鶴港は主に満洲やシベリア等からの引揚者を受け入れた港で、1945年から1958年にかけて66万人がここから日本に上陸しました。日本の引揚港の中では最も遅くまで稼働した訳ですが、これはシベリア抑留者を受け入れた事と関係があります。終戦時にシベリアに送られた人々の中には、1、2年で帰還できた例もあれば10年以上抑留されるケースもあり、全体として引揚期間が長くなったのです。


「舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 沖縄」は2022年3月12日に開会しました

 本巡回展では、帰還された人々がシベリアで記した日誌や日常使用した器具、シベリアの様子を描いた絵など、ユネスコの世界記憶遺産に登録された資料のレプリカを中心に展示しています。「器具」にはスプーンやパン切ナイフの他、麻雀牌まで含まれています。いずれも抑留者が自ら作ったものです。絵には、ソビエト兵らしき人たちと日本兵が合唱している様子を描いたものもあり、「極寒、貧弱な食事、重労働」一辺倒のイメージが強いシベリア抑留にも色々な場面があったことが伺えます。

ここでは、展示資料の中から「俘虜用郵便葉書—北田利関連資料」をご紹介しましょう。「俘虜用郵便葉書」は抑留者と日本にいる家族等が通信する一種の往復ハガキです。便りを送った「北田利(きただ とし)」氏は1904年生まれ。1945年から1956年にかけて11年4カ月の抑留生活を送りました。その間、日本にいる奥さん(はま子さん)、二人の娘さん(邦子さん、明子さん)とやり取りした俘虜用郵便葉書が舞鶴引揚記念館に保存されており、今回その内の4組が展示されています。


展示されている「俘虜用郵便葉書」

【北田利→北田はま子】
56年五・一〇、夜。56此の一ケ月日本の雑誌、写眞画報を見、段々目新らしい單語や物の名称になれました。日本の現状について色々の感慨が湧きます。喜びと寂しさ羨望と幻滅、感情と本能の氾濫。憎悪と憧憬。だが私は日本に皈(かえ)ります 皈りたいと願います。日本の自然を忘れることは出来ません。去年の秋から読書慾が減り、今では露西亜語の本と日本の雑誌と、碁とラヂオを気の向くまヽに楽しんでいます。雑談したりボンヤリしていることは極く稀です。そちらからの通信は普通の葉書類(有料)でも良い相(そう)です。佃煮類は漸く此の間なくなりました。

【北田はま子→北田利】
56五月十日夜お書き頂きましたお便りが届きました。七月一日です。敗戰国の日本を、十年御覧にならずいきなり雑誌や画報でお知りになつてどんなにお驚きになつたか、私にもよく解る様な気が致しますが果して貴方の何分の一を感じて居ります事やら、胸が痛みます。でもお帰りになられましたら日本の風光が、我が家が、そして子供達がお苦しみを救つてさし上げられる事でございませう。どうぞ幻滅感丈は早くお捨て下さいませ。私はどの様に辛くても悲しくとも幻滅は感じないで済みました。あなたが生きてゐて下さる丈でよろこびが湧きます。「お目出度く生れて幸せだね」と、誰かに笑はれ相ですけれど…。今度帰国されました稲見さんから、同じ収容所に生活した事があるとておはがき頂きました。今広島の病院に入院していらつしやいますとの事お気の毒に堪へません。体さへ達者でしたら大方の苦しみは消えて行く事でございませう。どうぞ御体は大事に遊ばして下さいませ。七月末に始ります日ソ交渉が待たれます。邦子が近頃になつて進学を望まなくなりました。就職したいと云つてゐます。少し勉強しすぎて疲れて来たのかも知れません。年頃の心境の変化かも知れません。今暫く黙つて様子を見てゐる事に致します 外は変りありません。神中からよろしくとの事です。 さやうなら

上は今回展示されている俘虜用郵便葉書の内の1組で、1956年5月と7月の便りです。やり取りから、シベリアから日本にハガキが届くのに50日ほどかかった事、日本の雑誌や佃煮等も送っていた事が分ります。はま子さんは「日ソ交渉」への期待を記しており、政治的な話題がすべて不可という訳でもなさそうです。この年の10月には鳩山首相がモスクワ入りしてソ連と交渉し、「抑留日本人の送還」を含む「日ソ共同宣言」に署名するというタイミングですので、その時の政治状況によるのかも知れません。

このやり取りにおける内容の主眼は、元気の出ない(11年も抑留されれば当然ですが)利さんに対し、一所懸命励ましているはま子さんの様子です。「幻滅だけは捨てるように」という言葉に、彼女の気持ちがひしひしと伝わって来ます。なお、ここでは「幻滅」を「絶望」の意味で使っているようです。利さんはこの年のうちに、舞鶴に帰還することとなるのですが、先が見えない中での長期抑留は精神的に辛かったと思います。

ついでに「神中」ですが、別の資料に「神中の子供達と…」、「神中尭子ちゃんが…」とあるので、名字であることが分かります。おそらく、はま子さんの実家ではないでしょうか。


2022年3月20日には、舞鶴の「学生語り部」の皆さんによる展示解説がありました

 本巡回展では、感情に訴えかけることは勿論、色々な事を考えさせられる資料が数多く展示されています。3月12日から始まった「舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 沖縄」も残すところあと2日。これらの資料が沖縄で見られる機会は滅多に在りませんので是非ともお見逃しなきよう、護佐丸歴史資料図書館に足をお運びください。「久場崎展」も同じく3月27日まで開催しています。


「舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 沖縄」展示風景

(文責:濱口寿夫)

続・館長ブログ「吉の浦だより」

当初、昨年8月に開催を予定していた「久場崎の戦後引揚げ開始75周年記念企画展」が1月29日から始まりました。同時に開催する予定だった京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 沖縄」は3月に延期となりましたので、しばらくは久場崎港のみの展示となります。2月13日には、引揚げを専門的に研究されている先生方による関連シンポジウムを開催しますので、参加ご希望の方は当館にお電話ください(申し込みは2月7日まで)。



「戦後引揚げ」とは、第二次世界大戦終了時に日本の国外にいた方々が故郷に帰還したことを意味する言葉です。数年の間に日本全体では600万人を超える方々が引揚げましたので、世界史上類を見ない規模・スピードの民族大移動でした。沖縄へは18万人を超える方々が南洋群島、台湾、満州、ソビエト等、そして日本本土から引揚げています。終戦当時、沖縄島の人口は30万人程度でしたので、引揚げによって一気に人口が膨張したわけです。このことは、元々不足していた住居、食料、耕作地がいよいよ払底する危機に直面することを意味します。帰還者の持ち込むお金が、通貨の流通量を激増させインフレを起こしたりもしました。その一方で、戦後の復興を支える数多の人材が沖縄に戻って来たという側面もあります。いずれにせよ、引揚げは戦後の沖縄に非常に大きなインパクトを与えた出来事だった訳です。

引揚げに関して日本本土と大きく異なる条件は、沖縄が米軍政府の施政権下にあったことです。琉球列島米軍政府は引揚者を受け入れた際に発生が予想される食料・住居等に係る社会的混乱を懸念し、当初引揚者の沖縄への渡航を認めませんでした。そのため、沖縄県人は故郷への帰還が大きく遅れます。米軍政府がようやく態勢を整え、公式な引揚計画に基づき沖縄県人の引揚げを本格的に開始したのは終戦から1年たった頃でした。


久場崎港に接近する引揚船、1946年(琉米歴史研究会所蔵)

台湾では、日本本土への民間人の引揚げは1946年2月頃から始まっています。沖縄県人も、そのつもりで引揚港の近くに集まってきますが、沖縄島への渡航が認められないばかりか、いつ可能になるという目途もない状況に置かれます。疎開者のうち、高齢者や子どもたち等は台湾総督府から支給されるお金で生活していたケースも多く、敗戦で総督府が機能停止してからは食べる物にも事欠く状況が続いていました。その他の人たちも港に来る時点で仕事はやめ、家も引き払っていますので1日でも早く沖縄に帰りたいのです。それがいつ出発できるか判らない状況で何カ月も過ごすのですから、さぞや困ったことだろうと思います。米軍の海岸警備が手薄だった宮古・八重山の人たちの中には、正式な引揚げを待ちきれず、漁船等をチャーターして自力で帰郷する例が多かったと言われます。ようやく1946年10月に台湾から沖縄島への引揚げが始まりますが、それまでの間に栄養不足や、不衛生な環境により亡くなってしまう方もいました。

海外から沖縄に引揚げる場合、上述のような直接帰還と、一旦日本本土に引揚げそこから沖縄に向かう2つのパターンがあります。満州やソビエトからの引揚げは後者です。大陸にいた方々は敗戦にともなう大混乱の中、飢え、病気、暴行、強制連行など命を危険にさらされながらの移動となりました。亡くなる方も多く、残留された方も大勢おられます。満州からの場合は主に葫蘆島、ソビエトからの場合はナホトカから京都舞鶴港へ引揚げます。日本に着いて一安心という面もあるとは思いますが、すぐ沖縄に帰れるわけではありません。身内との連絡がつかず、沖縄がどうなっているのか情報が無いという状況で不安を抱えつつ舞鶴港近くの「引揚援護寮」という名の収容所で暮らすことになります。沖縄に帰ることを諦め本土に定住することを選んだ人たちもいました。舞鶴からは原則として沖縄行きの船が出ません。従って、沖縄に向かう引揚者たちは、佐世保や鹿児島といった沖縄行きの船が出る港に移動しなければなりません。何とかたどり着いても、いつ出るか分からない船を待つため、またもや援護寮で数カ月暮らすことになったりしました。


久場崎に着いたとたんDDTを散布される帰還者たち、1946年(琉米歴史研究会所蔵)

沖縄の戦後引揚げについては、各市町村が刊行した戦争体験の証言集等の中でしばしば語られていますし、『琉球官兵顛末記』や『沖縄と「満洲」』等の書籍も刊行されています。しかし、沖縄の近代史における重要性の割にはあまり一般に知られていないように思います。これは自分自身が不勉強で、本企画展に関わるまで知らなかったのでそう感じるのかも知れません。しかし、「開拓農民として満州に入植し、戦後シベリア抑留されて、ずいぶん苦労されてから舞鶴港経由で沖縄に引揚げてきたウチナーンチュがいるんだ」と言ったときの私の周囲の人々の反応は「そうだってね…」ではなく、「え、そうなの!?」というものが殆どでした。



米軍政府の戦後引揚げ計画による最初の引揚げ者たちが沖縄に帰還したのは1946年8月17日で、上陸地点は中城村久場崎港です。久場崎港は沖縄への引揚げ者の大部分を受け入れた港で、この方々の戦後沖縄の暮らしはここからスタートしました。本企画展は公式引揚げ開始から75年の節目の年にちなんで開催されるものです。新型コロナ感染症の影響で、開催が今になってしまい、厳密には76周年かも知れませんがご容赦ください。この機会に、一人でも多くの方が戦後引揚げを知って、関心を持ち、これに関わった人々に思いを馳せて頂けたら幸いです。

(文責:濱口寿夫)

続・館長ブログ「吉の浦だより」

昼休みに海岸を散歩しました。今日はどんより曇って冷たい風が吹いていますが、それでも海岸に行くと何かしら生きものと出会ったりするので楽しいのです。最近は水鳥たちをよく見かけるようになりました。というより「鳥たちに気付くようになった」というべきかもしれません。以前は鳥に配慮せず、ずんずん歩いておりましたので、私が来る前に皆飛んで逃げてしまっていたようです。

写真はキョウジョシギという鳥の群れです。その他、吉の浦にはイソシギ、ムナグロ、シロチドリなども来ていて、これらのシギ・チドリ類は別種同士で「混群」を作っていたりします。このことに気付いてから鳥に興味を持つようになり、浜を慎重に歩くようになりました。まだ種類の分からない鳥もいますので、もう少し種類は増えそうです。


2021.12.27

海岸では、津堅・久高のふたつ島や勝連半島の眺めも楽しみです。日々違った姿を現すので見飽きるということがありません。あれ?津堅島の眺めが妙です!島が3つに分かれてしまっています。さらに、島影が上下対称になっていることや、宙に浮いて見えるので、何らかの錯覚が起こっていることは間違いなさそう。図書館に戻って調べてみると、これは「下位蜃気楼」という現象でした(「浮島現象」ともいうそうです)。下にある暖かい空気に冷たい空気がかぶさった時、光の一部が空気中で屈折して凹型に弧を描くように飛んでくるそうです。この時、私たちの目には島影上部の景色が下の方から飛んでくるので…。ややこしいですね。要するに空と島影の上部が鏡に映したように島の下に写り込んでしまうのだそうです。


2021.12.27

以前も津堅島の北側に別の島影が見えたことを思い出しました。その時は、津堅島の北にある「アフ島」が見えたのだろうと納得してしまいました。でも、よく考えると吉の浦からアフ島は見えそうもありません。津堅島の陰に位置するからです。今回決定的な光景を見るまで、適当につじつまを合わせて自分を納得させていたことに気付きました。こういうことは他の場面でもやらかしている可能性があるので気を付けなければ…。


2021.12.27

話しは変わりますが、本日で当館の今年の業務は千秋楽です。今年も去年に引き続き新型コロナによる臨時休館などいろいろとご不便をおかけしました。にもかかわらず、ご利用ありがとうございました。来年は5日から開館いたしますので、ご利用よろしくお願いいたします。「トラまるくん」も待ってます!




(文責:濱口寿夫)

続・館長ブログ「吉の浦だより」

最近、329号を走ると街路樹のアカギの葉が枯れかかって黄色くなっているのが目立つようになりました。中にはほとんど坊主になってしまっている樹もあります。新聞でも報道されていますので既にご存じの方も多いと思いますが、これは「アカギヒメヨコバイ」という昆虫の仕業です。ヨコバイ類は大雑把に云うとセミの仲間で、やはり植物の汁を餌としており、姿形も似ています。ただし、サイズはずっと小さいものです。





アカギの葉を裏返してみると…、数ミリのアカギヒメヨコバイが沢山付いていました!羽が短いので幼虫でしょう。こいつらか。葉が枯れるほど汁を吸ったのは。でも、よく見るとなんだか様子が変です。どの個体も妙に白っぽく、肢を突っ張ったような不自然な姿勢で静止しています。指先で押してみたらはらりと落ちてしまいました。脱皮殻だったのです。



これだけ脱皮殻があるのだから生きている個体もいるハズと思い、慎重に葉を裏返しながら探すと、いたいた。生きている幼虫は黄色っぽい。立派な翅を持った成虫もいます。ただ、脱皮殻の数に比べると非常に少ない。生きている連中は葉を動かすとそそくさと逃げ出すので見つけ難いということもあるでしょうが、それにしてもずいぶん少ないように感じました。幼虫は、巧みに肢を動かして横、斜め方向に移動します。確かに「ヨコバイ」ですね。成虫も横に歩きますが、飛んでしまうものも多いです。



アカギヒメヨコバイ(Coloana arcuata)は1981年にポーランドの昆虫学者 Irena Dworakowska によって原記載された種です。Yang et al. (2014) によると、元々は台湾と中国広東省・海南省に分布しており、これらの地域でもアカギに寄生しています。これが、どのような経路をとったかは不明ですが沖縄に侵入し、県内では2019年6月に初めて確認されています(琉球新報, 2021)。2020年は首里辺りで相当被害木を見ましたが、中城村ではあまり見かけなかったように思います。県内での分布も拡大中でしょうか。

この昆虫は県議会でも話題になっています。2021年6月29日の一般質問で「アカギの葉枯れについての原因と対策等」が出ました。これに対し、県から1)原因は国内初確認の外来種であること、2)現時点では、農薬取締法上登録農薬がないため薬剤による駆除ができないこと、3)枝葉の剪定により対処していること、4)今後農薬の早期登録に向け取り組んでいくこと等が答弁されています(沖縄県議会本会録HP)。アカギヒメヨコバイ用の農薬が無いのですね。といいますか、他の害虫用の農薬を使ってはいけないということを初めて知りました。



農薬使用のルールはどうなっているのでしょうか。少し調べてみましょう。まず「農薬を使用する者が遵守すべき基準を定める省令」(平成十五年農林水産省・環境省令第五号)を見てみると、以下のように書かれています。
『農薬使用者は、農薬取締法第十六条第四号、第六号、第九号及び第十一号に掲げる事項に従って農薬を安全かつ適正に使用するよう努めなければならない。』
農薬取締法第十六条は農薬の容器等に表示すべき項目を定めたものです。今回関係する同第四号は「登録に係る適用病害虫の範囲及び使用方法」なので、農薬を使用する人はその容器等に表示されている「適用病害虫の範囲」を守らねばなりません。でもアカギヒメヨコバイは2019年に日本では初めて発見された害虫なので、現時点ではこれを適用病害虫に含めている農薬は無い、つまり使用可能な農薬が無い、ということになります。ちなみに、農薬取締法上は街路樹も「農作物」に含み同法の対象としています。

他のヨコバイ類やアブラムシ等を対象とする登録農薬の中には、アカギヒメヨコバイに効くものもあるハズです。そのような農薬について、適用病害虫の範囲を変更しこの昆虫を含むようにすれば、農薬による駆除が可能になりますが、そのためには農薬取締法に基づき農水大臣の許可を得なければならず、その手続きをいま県が頑張っているところだと思います。

【引用文献】
沖縄県議会本会議録HP.令和3年第4回定例会第6号(http://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/).

琉球新報.2021.アカギ害虫広がる.2021年12月6日:23面.

Yang, M., Cao, Y. & Zhang, Y. 2014. Review of the leafhopper genus Coloana Dworakowska
(Hemiptera: Cicadellidae: Typhlocybinae: Erythroneurini). Zootaxa 3802 (3): 346–358.

(文責:濱口寿夫)

続・館長ブログ「吉の浦だより」

12月1日より当館3F企画展示室にて、全日本写真連盟沖縄県本部主催の「第44回沖縄支部 第3回コザ支部 合同写真展」を開催しています。全日本写真連盟は1926年(大正15年)に創設された写真愛好家の団体で、沖縄支部とコザ支部は全国に約800ある支部のうちの二つです。





この写真展は昨年も当館で開催する予定でしたが、コロナ禍の為、中止となってしまいました。今年も先行きがはっきりしない状況が続いていましたが、秋になってようやくコロナが沈静化し実施に至っています。会員の皆様におかれましては、無事開催できるか気を揉まれたこととお察しいたします。





作品は70点ほど。季節の風物詩、日常の風景、動植物、祭祀など様々な題材を取り扱っています。撮影地も県内、県外にとどまらずミャンマーやタイなど外国のものもあります。インドで撮られた雪景色の写真があってびっくりしました。考えたらインドにも寒くなる地方はあるのでしょうが、そういうイメージが無かったので…。ともかく、いろいろなことを感じさせてくれる力作ぞろい。開催期間は来週月曜日までとなっておりますので、お見逃しなく!

(文責:濱口寿夫)

続・館長ブログ「吉の浦だより」

10月15日の琉球新報、沖縄タイムス両紙に、大量の軽石が県内各地の海岸に漂着しているという記事が出ていました。ネット情報によると鹿児島県の喜界島や与論島にも漂着しているとのこと。吉の浦はどうかと思い、海岸を見てきました。




中央粘土色の部分が軽石です

ありました!モク(海藻)に挟まれるようにして、汀線と平行に幅数十センチの帯状に軽石が堆積しています。モクと一緒に太平洋を漂流していたのでしょうか。個々の軽石は数ミリ程度のものが多いですが、中には大きなものがあります。これまでも吉の浦で時々見かけていたので、軽石の漂着自体は珍しいことではなさそうですが、これほどまとまった量の「新鮮な」軽石を見るのは初めてです。





写真上の軽石には黒い部分があります。ガラス質以外の鉱物が混ざっているようです。このように今回漂着した軽石には黒い部分を持つものが多いような気がします。写真下の軽石にはエボシガイが着いています。エボシガイは、貝ではなくフジツボの仲間で、さらに大雑把に云うとエビ・カニグループの一員ということになります。流木などに付着し、海を漂いながら生活する動物で、貝殻のように見える殻板の間から蔓脚(まんきゃく)を出してプランクトンを捕まえて食べます。

今回漂着した軽石は、小笠原諸島南硫黄島の北約5キロの場所にある「福徳岡ノ場」という海底火山が出所だそうです。この火山は今年8月に爆発しました。「福徳岡ノ場」を海底火山と言いましたが、現時点では火山からの噴出物により新島が出来ています。この新島は火山灰と軽石でできているため波や風雨による浸食が早く、いずれ無くなると見られています(2021年10月8日付、読売新聞オンライン)。

『氣象集誌 第一輯』という雑誌に、筒井百平という方が1915年に書いた「「ハロス」の輕石沖繩島に漂著す」という記事が掲載されています。


去る六月十九日八丈島の南方靑ヶ島を南に去る三十哩「ハロス」岩付近の海底噴火の際に生じたる輕石が風又は海流の為め漂流して七月下旬に漸く沖繩島の北西海岸に達したるものあり(中略)
輕石漂著の時日及位置
(一)七月二十二日朝。國頭郡本部村字健堅海岸
(二)七月二十七日。國頭郡國頭村字邊土名海岸
(三)七月二十八日朝。那覇區字若狹町海岸。本所の海上觀測地點
輕石の色彩及形態
黒又は褐色なるもの多く稀には灰色なるもありて一般に生々しく且つ光澤あり。


「ハロス」は伊豆諸島ベヨネース列岩のことですので、「付近の海底噴火」は隣接する明神礁の噴火でしょう。軽石は1か月余りで伊豆諸島から沖縄島にたどり着いています。今回は小笠原諸島から2か月ほど。出発地点も違いますし、天候・海流の状況や、いずれの海流に乗るか等諸条件もいろいろでしょうから、早い遅いの評価は余り意味が無さそうです。そもそも陸に着かない軽石だってあるでしょう。

ところで、昔は「漂着」を「漂著」と書いたようですね。句読点もほとんど使わないので少々読みにくいです。

さて、話を戻して、同じく『氣象集誌 第一輯』の1914年にも軽石漂着の記事がありましたので見てみましょう。


石垣島海岸に輕石の漂著 石垣島測候所の岩崎所長の報知によるに同島絲數原海岸に五月二日夥多しき輕石漂著せり明治三十八年五月に同様の輕石漂著し來たれることあり今回は彼時に比すれば極めて少量なりと云ふ想ふに今回の輕石は本年一月の中旬に南硫黄島附近に新島の湧出せし時に生せしものなるべし小笠原父島にも去る四月に輕石の漂著せしものありしと云ふ(岡田)


おや!「南硫黄島附近に新島」というのは、もしかして「福徳岡ノ場」のことではないでしょうか。そこで、気象庁ホームページの「福徳岡ノ場 有史以降の火山活動」を覗くと、はたして1914(大正3)年1月に噴火していました。


1月13日~2月12日。火砕物降下、(海上浮遊軽石)。噴火場所は福徳岡ノ場(新硫黄島)。1月23日に大噴煙、溶岩流出。1月25日に新島出現(高さ300m、周囲11.8km)、12月には新島は各所で決壊、翌々年には消滅していた。


100年以上前に同じ場所で噴火があり、同じように琉球列島に軽石が漂着していたということです。今回、石垣島の初代測候所長にして「天文屋の御主前」こと岩崎卓爾さんと時をこえて共通の自然現象に触れている訳で貴重と言いますか、不思議な気持ちになりました。でも、火山にとっては100年など刹那にすぎないのかも知れませんね。

【引用文献】
気象庁HP;福徳岡ノ場 有史以降の火山活動.(https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/331_Fukutoku-Oka-no-Ba/331_history.html).

岡田某.1914.石垣島海岸に輕石の漂著.氣象集誌 第1輯 33(6): 305.

筒井百平.1915.「ハロス」の輕石沖繩島に漂著す.氣象集誌 第1輯 34(11): 719-721.

読売新聞オンライン2021年10月8日付記事;小笠原付近の「新島」が半分程度に縮小、海底では活発な火山活動続く.(https://www.yomiuri.co.jp/science/20211008-OYT1T50169/).

(文責:濱口寿夫)

続・館長ブログ「吉の浦だより」

数か月ぶりに海岸を歩いてきました。近すぎると中々足が向かないということもありますが、少し前は余りの暑さに海岸をうろつく気分になれなかったという方がより大きな理由だと思います。今日はいい天気ですが、日差しは真夏と比べるとかなり柔らかくなりました。光の角度が下がり、そのせいか分かりませんが、景色がセピア色に見えます。



強い東風によって、いろいろなものが海岸に吹き寄せられています。これはゴバンノアシというインド洋・太平洋の主に熱帯地域に分布し、沖縄では八重山諸島に自生する植物の実です。「碁盤の足」に見えますか?長い間漂流したらしく表面が削られ繊維がむき出しになっていますね。調べてみるとゴバンノアシはサガリバナ科とのこと。そういえばサガリバナの実にも4つの角があったなと、いつか川沿いの木で見たことを思い出しました。



大きなロープはどこかの船からの落とし物でしょうか。



写真では分かりにくいのですが、ガラスの欠片が沢山散らばっています。ビーチコーミングの材料に良いかも知れません。



「モク」と呼ばれるホンダワラ類の海藻が堆積しています。モクは岩に着いて成長しますが、夏になると枯れ始め、剥がれて海を漂い打ち上げられます。これは一寸前に上がったものでしょう。この浜ではこの時期堆積しやすく、何年か前、腰の高さぐらいまで溜まっていたこともあります。



堤防岩盤の表面に貼り付いているのはコウダカカラマツガイという笠貝の一種です。笠貝には、鰓呼吸するグループと、肺呼吸するするグループがあり、コウダカは後者に属します。貝類では鰓呼吸の方が一般的なのでそれがホンモノということになっていて、有肺類のカサガイはpseudo limpet(まがい物のカサガイ)と呼ばれます。写真中央のレモン色の輪はコウダカの卵塊です。



海岸林の陸側の小道に入ると樹木の上に空が見えます。真夏は、濃い青空にくっきりとした輪郭の入道雲を見ることが多いのですが、秋の雲は茫漠としております。



(文責:濱口寿夫)

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沖縄戦の最中から終戦後のある時期まで、中城村に久場崎港(「久場崎桟橋」とか「ブラウン・ビーチ」と呼ばれることもあります)という港があったことをご存じでしょうか?場所は、現在東海産業の埠頭がある辺りです。久場崎港は米海軍第21建設大隊(通称「ブラック・ジャック」)が設置したもので、1945年5月7日から工事が始まり6月15日に完成しました。海岸線から2本の突堤を沖に向って伸ばし、その先に「ポンツーン」と呼ばれる浮桟橋を繋げたもので、上空から見ると「コ」の字型をしています。突堤の埋土は破壊した泊村、久場村から運んでおり(The 21st U.S. Naval Construction Battalion, 1946)、おそらく両集落の石垣などが使われたのでしょう。


出典:Google Earth(筆者注:久場崎港の北側突堤の残骸が見えます)

米軍は5月19日の時点で早くもLSM(中型揚陸艦)を未完成の久場崎港に着船させています。この時期、日米両軍は首里をめぐり激しい攻防を繰り広げている最中でしたので、一刻も早く使用する必要があったのだと思います。日本軍も久場崎港のことを黙って見過ごしていたわけではなく、戦闘機による爆撃や特攻を行いましたが、港が機能を停止することはありませんでした。戦闘が終了するまで、久場崎港は大量の兵器・兵員を南部前線の部隊に供給し続け、米軍の勝利に大きな役割を果たしたと言われています(The 21st U.S. Naval Construction Battalion, 1946)。戦闘終了後、久場崎港は米軍基地建設のための資材の陸揚げ、さらには帰国するアメリカ兵たちを送り出す拠点として使われました。そして、戦後は沖縄の人々の引揚港となります。

戦後、沖縄へは国外・日本本土から18万人もの人々が帰還したと言われています。当時の沖縄の人口が30万人ぐらいですので、社会に対するインパクトは強烈だったと思います。引揚者は那覇港などから上陸する例もありますが、その殆どは久場崎港に着いています。引揚船が中城湾に入った時、山や集落を見てその変わりように驚いたり、中城城の石垣を見つけて故郷に帰ってきたことを実感したりと、引揚者の印象は様々です。港から上陸した引揚者は久場崎収容所かインヌミ収容所(現沖縄市高原)に、多くの場合、数日滞在し引揚証明書などを受け取ってからトラックでそれぞれのシマに運ばれて行きました。ちなみに、久場崎収容所は後に久場崎ハイスクールになりました。カマボコ型の金属製建物(コンセット)を覚えておられる方もいるでしょう。

沖縄への引揚げのピークは1946年10~11月頃で、これを過ぎた1946年12月末に久場崎収容所は閉鎖され、その後しばらくの間はインヌミ収容所のみで引揚事務が行われます。久場崎港への引揚げが終るのは1948年3月頃と言われ、それ以降の引揚船は那覇港に入ったようです(沖縄市企画部平和文化振興課編, 1995)。引揚港としての役割を終えた久場崎港はしばらく放置されますが、やがて離島への桟橋として使われるようになります。一時は、離島から豚肉、鶏、魚、野菜が集まって熱田に「にわか市」ができる程の賑わいを見せたそうです。しかし、食糧事情の好転とともに桟橋は使われなくなり、やがて消えていきました。1970年5月に撮影された航空写真を見ると、海中に2本の突堤の残骸が伸びています(「地図・空中写真閲覧サービス」,国土地理院, 2021年8月9日閲覧)。


出典:国土地理院航空写真(1970年5月5日撮影、MOK701-C6-2)

今夏は、1946年8月17日に公式には初となる引揚団が久場崎港に到着してから75年目となります。この節目にあたり護佐丸歴史資料図書館は京都府の舞鶴引揚資料館と共同で戦後引揚げをテーマにした展覧会と関連シンポジウムを企画いたしました。舞鶴は歌謡曲の「岸壁の母」で有名ですが、満州、シベリアなどからの引揚者を1958年まで受け入れ続けた港です。沖縄からも満蒙開拓団に約1,000名もの方々が参加していますが(沖縄市企画部平和文化振興課編, 1995)、私は今回の企画展の準備で資料を読むまでこのことや、その中にはシベリア抑留を経験された方々がおられたことを知りませんでした。不勉強の言い訳のようになりますが、戦後の沖縄社会にとって引揚げは小さくない出来事だった筈ですが、その重要性の割には語られる機会は少ないように感じます。この企画展が引揚げについて改めて考える材料を提供出来ましたら幸いに存じます。なお、本企画会・シンポジウムは当初8月開催の予定でしたが、新型コロナの感染拡大に伴う臨時休館のため、延期しております。期日が決まり次第、改めて当ブログ等でお知らせいたします。

(文責:濱口寿夫)

【引用文献】
The 21st U.S. Naval Construction Battalion. 1946. The Blackjack, 1944-1945. 190pp. Army & Navy Publishing Company, Baton Rouge, Louisiana.

沖縄市企画部平和文化振興課(編).1995.インヌミから:50年目の証言.238pp.沖縄市役所,沖縄市.

続・館長ブログ「吉の浦だより」

7月21日夕、沖縄県が7月22日から31日までを「集中行動抑制期間」に位置付けました。本県には既に緊急事態措置が適用されているところですが、デルタ株の感染拡大等を防ぐため、これまで以上に外出や他人との接触機会の削減が求められる状況となりました。これを踏まえ、当館は当該期間を臨時休館とし、7月24日の「海岸のいきもの観察会」は中止いたしました(当日は台風6号の影響で天候的にも無理でしたが…)。観察会は元々5月29日実施予定だったのものを延期していたのです。再延期も考えましたが、今後の状況が不透明でさらに延期を重ねるような状況も想定されるため一旦リセットさせて頂くことにしました。参加申込みされていた方々には申し訳ありませんが、状況の好転を待って改めて企画したいと思いますのでよろしくお願いいたします。

さて、そこで代わりにという訳ではありませんが、観察会でご覧頂こうと思っていた吉の浦のカニたちをご紹介します。


吉の浦公園南側の小さなビーチです。砂地の表面になにか模様のようなものが見えますね。いったい何でしょうか?


拡大すると、径3ミリぐらいの砂ダンゴが並び置かれてその部分が模様を描いていました。この写真にダンゴの作り主が写っていますので探してみて下さい。これは「コメツキガニ」といって砂を口に含み表面の有機物を食べます。砂粒自体は食べられないので吐き捨てますが、その時砂が粘液でまとまってダンゴ状になるという仕組みです。コメツキガニは干潮の時、吉の浦の砂地に沢山出てきますが、大変な臆病者で、人間が近づくと一斉に穴に隠れてしまいます。


 
浜漁港の方に進むと、渚に平たい岩場があります。その表面には5ミリぐらいの「ツノメチゴガニ」がいます。ミッキーマウスの手のような白くて大きなハサミを振り上げてバンザイを繰り返しているのは雄です。雌への求愛と、他の雄への威嚇の両方の意味があると考えられています。このカニも臆病者で、人間が近づくと穴に逃げ込んでしまいます


同じ岩場にはシオマネキ類もいます。これはルリマダラシオマネキでしょうか。派手な色彩ですね。


陸上競技場の前のビーチです。泥が深い場所がありますので注意が必要です(子どもたちは必ず大人と一緒に!)。一見何もいないようですね。


ところが、実はたくさんのシオマネキ類がいるのです。シオマネキ類も臆病で、人が近づくと皆穴に逃げ込んでしまいます


オレンジ色のハサミを重そうに扱っているのはヒメシオマネキです。この場所では最も多い種類です。



レモン色のハサミを振り回しているのは、ヒメシオマネキより少し小柄なハクセンシオマネキ。ハクセンシオマネキは浜漁港側の突堤近くにも非常に多いです。

少し歩いただけで、コメツキガニ、ツノメチゴガニ、シオマネキ類3種を観察することが出来ました。吉の浦海岸は、カニ類以外も含め、実にいろいろな生き物が生息しています。植物も四季折々の変化を見せてくれます。コロナ禍で街中に出かける機会が減る昨今ですが、身近な自然を観察されては如何でしょうか。

さて、最後にカニたちを観察する秘伝をお伝えします!「秘伝」と言っても単純で、「じっとして動かない」だけです。カニたちはいずれも「大変な臆病者」で、人が近づくと、すぐさま穴に逃げ込んでしまいます。私たちが到着したときには、カニたちが穴に潜んでいる状態のビーチを見ることとなり「何もいない…」と思ってしまう訳です。そこで立ち去らないで、じっとしてみて下さい。手足は勿論のこと、首も動かさないのがコツです。1~3分ぐらい、とても長く感じる時間ですが我慢していると、カニたちが恐るおそる穴から出てきます。あとは目線だけ動かしながら彼らの食事、ダンスやけんかを観察しましょう。

(文責:濱口寿夫)

続・館長ブログ「吉の浦だより」

5月23日より沖縄県に特措法に基づく緊急事態措置が適用されたことを受け、護佐丸歴史資料図書館も5月26日から「入館停止」とさせて頂いております。その一方で、本の貸出しや返却・レファレンスの受付といった業務は行っています。


玄関の臨時カウンター

「エッ?入れないのに、本が借りられるの!」

そうなんです!借りたい本を事前に電話でご連絡いただき、当館の玄関でお渡しするという仕組みで本の貸出しをやっております(詳しくは当ブログ6月2日付の「入館停止期間中の利用サービスについて」をご覧ください)。

今回のような場合「臨時休館」という表現が使われることが多く、当館でもこれまではそう言っていました。しかし、「休館」だとすべての図書館活動をやめているように聞こえないでしょうか?そこで、館内で議論をしたところ「本を借りることはできるけれど、館に入れないということなので、表現としては“入館停止”の方が良いのでは」ということになった次第です。

「借りたい本がある場合、どうすればいいの?」

貸出しご希望の本につきましては、電話で承っております。利用者カードと本のタイトル等のメモをお手元にご用意の上、護佐丸歴史資料図書館までお電話下さい。当館の蔵書は護佐丸歴史資料図書館WebOPACや沖縄県立図書館の「みーぐるぐるサーチ」で調べることができます。ネットでの検索が難しい場合は電話でご相談ください。当館の収蔵本についてはご準備いたしますので、その日の閉館時刻までにご来館の上玄関の臨時カウンターで受け取りをお願いいたします。なお、在庫状況等により当日のお引渡しができない場合は折り返し連絡差し上げます。

当館では、電話でお知らせ頂いた本を準備し臨時カウンターでお渡しできる状態にしてその日の間保持することを「取りおき」と呼んでおります。これは、WebOPACを使って貸出し中の本に対し次の利用者として登録する行為を指す「予約」と作業の都合上区別する必要があるためです。

「取りおき」=書架にある本について、電話でリザーブすること
「予約」=貸出し中の本について、次の利用者としてネットで登録すること

一般的にはどちらも「予約」という言葉の範疇なので、この用語の使い分けは煩わしいとは存じますが、ご容赦の上よろしくお付き合いの程をお願いいたします。



臨時カウンターでの貸出しは、平日は20 名程度の方々に利用していただいている状況です。土日は60名程度で、時間帯によっては混雑の恐れもあります。混み具合によっては、6月2日付「入館停止期間中の利用サービスについて」にある新刊本やおすすめ本の展示・貸出し等を控えさせていただきます。新型コロナにかかる状況は流動的であるため、今後もそれによって図書館の運営方法が変更になることがあり得ますので、当ブログやHP等で最新の情報をご確認いただければと思います。

とにもかくにも、現在は図書の貸出し業務を継続しております。いろいろとご不自由をおかけしますが、なにとぞご寛恕を賜りましてご利用いただければと思います(特に平日は19時まで営業していますのでご検討を!)。

(文責:濱口寿夫)
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